紅白の権威を支えるノスタルジー

やはり紅白というのはまだ権威のようなものがあるのだろうか。
ももクロの「紅白卒業」やバンプの「紅白初出場」でファンが一喜一憂をする様子を見てそんなことを考えていた。

紅白の視聴率は年々確実に低下している。
> ビデオリサーチのNHK総合「紅白歌合戦」視聴率ページ
http://www.videor.co.jp/data/ratedata/program/01kouhaku.htm

視聴率が70%をとっていた時代に比べれば、確実に紅白の威光は陰っているはずだ。
それなのになぜ出場可否にファンが大きく反応してしまうのか。

アイドルやアーティストたちがストーリーを紡いでいくうえで、紅白出場は道標としてわかりやすいからなんだろう。
たとえば武道館は同じような力を持っていて、色んなアイドルやアーティストが特別な上演会場として武道館を選んできた。
そのような”物語のパーツ”として紅白を考えれば、出(られ)ないことすらも物語の一要素に還元することができる。

また、出場しないこと自体がアーティストのアイデンティティや表現にもなりうる。例えばミスチルがそうだろう。

なぜ紅白は”物語のパーツ”になりうるのか。
紅白が権威を維持しているから出場可否が表現の手段や物語の一部として機能すると考えることはできる。
果たして現在の紅白はそれほどの力を持っているのか。前述のように視聴率は明らかに落ちている。

むしろ現代ではアイドルやアーティストの物語の一部として扱われるからこそ権威を維持できているのではないか。
かつて、紅白は日本全国のお茶の間の目線が同じように注がれ、他のテレビ番組に比して権勢を誇っていた。
現在は昭和の時代ほど紅白に多くの目線は注がれてはいないかもしれない。
しかし、各出場者のファン達がそれぞれの物語の道標として”特別な目線”を紅白に注いでいる。
その”特別な目線”が紅白の権威を維持しているのである。

絶対数は減り仔細は様々になったものの、世代やクラスタを越えて多くの目線が紅白には注がれているのだ。
日本国内において、このようなコンテンツはなかなかないのではないか。
特にインターネット発では生まれにくいだろう。見たいものを見られるのがインターネットだからだ。

ところで「大晦日は家族で紅白を見る」という光景はどれほど維持されているのだろう。
実際はほとんど喪われていて、それは一種のノスタルジーなのではないか。
しかし、紅白が物語の一要素と機能する上で、このノスタルジーの存在は重要である。
このノスタルジーが紅白を特別なものたらしめているからからだ。
実情とは異なっても、このノスタルジーが維持される限り、紅白の権威もまた失われないのだろう。

ノスタルジーが紅白を特別なものにしている。
そして特別だから物語に組み込むことが可能であり、そのおかげで多くの目線を集めることができ、権威も維持される。
そしてそうやって生成された物語と権威がまたノスタルジーを支える。
「国民的番組(であった)紅白に出場した」というかたちで物語上に配置され続ければ、きっとノスタルジーは維持し続けられるだろう。
さながら自転車操業である。

> テレビ離れ”鮮明に 短時間視聴が増加 「必要ない」も増加 NHK調査
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1507/08/news088.html

しかし、視聴率の低下、テレビ離れ、紅白に向けられる目線は逓減し続けている。いつかは紅白のノスタルジーも失われてしまうかもしれない。
そうなった後、ある程度の多様性を保ったまま世代やクラスタを越えて視聴されるコンテンツは生まれ得るのだろうか。