観劇初心者にオススメしたい、演劇の魔法を魅せてくれる演出家・谷賢一 / シアタークリエ「死と乙女」

 以前、gekipon vol.0に書いたけど、オススメのお芝居を教えてほしいと演劇をあまり観にいったことが無い人に聞かれることがある。だいたい答えに窮してしまう。その人の好みに合わなければ、演劇自体に苦手意識を持ってしまうかもしれないし、そもそもぼくの引き出しもそんなに多くない。
だけど「夏目漱石とねこ」と「死と乙女」を観て、谷賢一演出の舞台を薦めるのがいいんじゃないかと思うようになった。彼のつくるお芝居はいつも、演劇ならではの魔法を見せてくれるからだ。



PLAYNOTE(谷賢一のブログ)
雑考(演劇がはじまる瞬間について)

> 昨日お話した通り、普通に暗転して1場の照明ライトインすれば、演劇は始まります。
> 「ここからは、そういうことね」と、無言の約束が観客と舞台には結ばれます。
> この無言の約束、それは凄まじい力です。魔法です。
> その約束を、我々は無言で行う。

 無言の約束、これは嘘 =フィクションを支えあう、という約束だと、ぼくは考えている。演劇は壮大な嘘だ。
「死と乙女」には風間杜夫氏が出演しており、ロベルトという役を演じている。正直、風間氏の風貌とロベルトという名前は不釣り合いだ。ロベルトとジェラルドーが日本語で話すなんて、嘘以外の何でも無い。でもその時、公演会場にいる人たちは「風間杜夫が演じるロベルト」というフィクションを認め、一緒に支えあっていて、そうやって舞台は成り立っている。

 嘘が成り立ちにくい状況というのもある。それっぽく見えない、ということだ。演技が下手、脚本にアラがある、照明や音響がワザとらしいとか、そういう時はフィクションが、魔法が成り立たないことが多い。そんなお芝居は最低ラインに立っていないとも言えるだろう。一方で鮮やかな魔法、気持ちの良い嘘をついてくれる演出家、それが谷賢一なのである。



 「死と乙女」は “本当のこと” “事実” という言葉がたくさん出てきていた。本当のことを求めるのは「嘘」が前景にあるからだろう。

独裁政権が崩壊して間もなくの、南米のとある国。
かつて学生運動に参加していたポーリナ(大空祐飛)は、
独裁政権下で誘拐・監禁され拷問を受けた記憶に今も怯えている。

ある晩、夫の帰りを待っていると1台の車が近づき、
弁護士である夫のジェラルドー(豊原功補)が降りてきた。
車がパンクし、通りがかりに送ってもらったという。

ジェラルドーを車で送った医師・ロベルト(風間杜夫)の声を聞き、
彼こそ、シューベルトの四重奏曲「死と乙女」を流しながら、
自分を拷問した男だと確信する。

シアタークリエ「死と乙女」 STORY より

 ポーリナは夫が眠っている間にロベルトを拘束し、尋問をはじめる。彼女は”本当のこと”の告白を求める。彼女にどういう仕打ちをしたか、仲間たちの名前は何か、洗いざらい告白し、それを録音して自分で書き起こせという。
ロベルトは自分じゃない。自分は無実だから何も知らない、告白することが無いと言う。しかし、ポーリナは彼に間違いない、告白するまで解放しないと譲らない。そこでジェラルドーは彼女のいないところで ”告白” をつくりあげることをロベルトに提案する。自分が彼女に話を聞いて、それを元に嘘の告白するのだと。そしてロベルトはそれを承諾する。



 彼女がジェラルドーに告白する話の中で、印象に残ったシーンがある。話し始めた彼女にジェラルドーが「もっと詳細に!」と促す。そうすると彼女は「14時15分 〜通り…」と時刻と通りの名を付け加える。そして、背中から銃を突きつけられたときのことを続けて話していく。なぜか、男の口がにんにく臭くて、お腹の中で食べたものを消化している様を想像したこと。彼女はその時のことを思い出しながら話す。そんなことを想像したのは、解剖学の授業を受けていたからではないか、と他人事のように付け加えながら。

 告白するとき、自分の見たこと触れたことをそのままに話すことはできないものだ。どう感じたのが付け加えられる。その時だけではなく、後からどう感じたのかもだ。削られるエピソード、付け加えられる言葉が出てくる。前述のポーリナであれば “解剖学の授業を受けていたからではないか” というのは後から加えられた言葉だ。こうやって他の人に話されることで、個人の体験は物語になっていく。さて、そうやって話された告白は”本当のこと”なのだろうか。



 彼女の告白内容に沿ってロベルトは告白をする。しかし、ポーリナは罠をかけていた。夫への告白内容に”嘘”を混ぜていたのだった。ロベルトをその”嘘”を訂正して話したと、ポーリナは彼を糾弾する。しかし事実は霧の中だ。ロベルトは事実を知っていたから、訂正したのかもしれないし、ただ間違えただけかもしれない。さらにロベルトが拷問した本人だったとしても、ポーリナの記憶と彼の記憶が一致するとも限らないのだ。

 ”本当のこと”はどこにあるのだろう。

 彼女はロベルトに、告白を録音して自分で書き起こすことを求めた。それは自分の体験が幻影ではないと、記録を残すことで確かなものにしたかったからではないだろうか。だから”本当のこと”は彼女の中にはない。彼女と誰かの間にしかない。事実と違っていたとしても、彼女と誰かが”本当のこと”だと認めあい、共有できれば、彼女にとっての”本当のこと”となる。自分だけの体験ではなく、誰かとの間の物語にすることで、その事が確かにあったと感じられ “本当のこと”になるのである。

 彼女はきっと、自分の物語を支えあう相手が欲しかったのではないか。



 演劇の魔法も、観客と創り手の間で支えあうことで成り立つ。谷賢一が「死と乙女」のラストシーンで魅せた魔法は鮮やかだった。

 コンサートへと向かうロベルトとポーリナが客席から登場する。観客と一緒に舞台を見上げる。観客も「死と乙女」の物語を支えあう共犯者だと示すかのように。観客も演劇の魔法を支える大きな要素なのだと示してくれたのだ。

 思えば、谷賢一の魔法はいつも鮮やかだった。「モリースウィーニー」では目の見えない女性モリーの世界を観客に体感させ、「夏目漱石とねこ」では文豪の知られざる孤独を、猫の目を通じて観客と共有した。演劇はどうせ嘘なのだ。

 谷賢一なら気持ちいい嘘を、魔法を魅せてくれる。だから演劇初心者にもオススメできるのだ。

 そういえば谷賢一は「演劇悪魔」と呼ばれているらしい。悪魔だからうまく嘘をつけるし、鮮やかな魔法を使えるのかもしれない。