あきらめの悪い大人でありたい / 天気の子

 昨日、『天気の子』を見て、ぼくは好きになれなかったので深夜まで悶々としていた。

 帆高たちのロールモデルとなる大人が出てこないことと、帆高が大人や社会と対話して解決していこうという行動をとろうとしなかったことに違和感を抱いたからだった。『天気の子』が現代の10代の子供に寄り添って作られているのであるなら、ロールモデルになる大人は彼らの身近にいないのだろうし、大人や社会は対話して動かすことができる存在ではないと感じていることになるのだろう。

令和元年でははるかにコンプライアンスの意識が高まっており、『天気の子』での帆高の行動を好意的に受け取れない人もいるだろう。ただ、僕個人としては前述したとおり、そこに計画性や主体性の裏付けがないことに対する嫌悪感の方が強かった。彼女を守るために親や須賀と対話する道を選ぶわけでもなく、ノープランで逃げ続けたこと。銃を発砲したことに対する心の軽さ。何もかも子供の行動でしかない。

大人になってしまった僕が見た『天気の子』。

 帆髙も陽菜も、彼らの求める自由は社会システムと対立するものであって、彼らが自由になろうとすると社会システムから逸脱してしまう。「何かから隠れているか逃げている」シーンが多いように感じられたのは、彼らが社会システムから逸脱しているからであり、対話して解決できるとも思っていないからだろう。

そして帆高は家出少年として、陽菜は保護者不在で自活する未成年者として、社会システムからはみ出してしまっている。この作品の主人公とヒロインは「逸脱者」なのだ。

『天気の子』が照らした、社会システムの内と外

 自由で反射的なところのある帆髙の行動は、社会システムとの間に大きな摩擦を生じさせていく。そんな”子供らしい”彼の選択を、須賀も夏美もそして同じ子供であるはずの陽菜も受け入れて、許す。

帆高くんが、要は結局のところ最終的には、周りの人々に無際限に許されていく話、っていうところにも、やっぱりならざるをえなくなっちゃってて。特に気になるのは、大人たちが許すのはまだいいんですけど、ヒロインの陽菜さん。彼女がですね、結局その、いろんな業を1人で背負っちゃってるわけですけど、彼女がひたすら帆高くんの行動を許し、その選択を受け入れていくことで、初めて成り立ってる話なわけですね。

宇多丸、『天気の子』を語る!【映画評書き起こし 2019.7.26放送】

 東京において帆髙のもっとも身近な大人であった須賀は、最後の帆髙の破壊的な選択を助け、許す。ぼくも須賀が後押ししたこと、許すこと自体に全く否定的なわけではない。

 しかし、須賀は後悔の念を抱いている描写が欲しい気持ちもあったのだ。

——帆高ともう少し違う関わり方をしていれば、また違った軟着陸の仕方があったんじゃないだろうか?

 須賀は帆高の面倒を一時的に見ていたものの、彼の内面に深く立ち入ろうとはしていなかったし、須賀自身も帆高に対して胸襟を開いて接しているようではなかった。

 きっと、東京が水没してしまうこと自体は防げなかっただろう。でも帆高が警察に捕らえられなかったり、東京に居続けられるような方法もあったかもしれない、ぼくにはそう思えてしまうのだ。

 
 

 子供のために、自分のために、もっとあきらめの悪い大人でいいんだ。
過去のことを後悔し続けることは肯定しないけど、過去を再検証して未来の可能性や希望を求めていくことは必要だと思うのだ。

 
 


*陽菜が許してしまうことついて、主人公は神秘的なヒロインの意思を理解せずにすれ違ってしまうという、このキャラクター造形がぼくの好みに合わないというところがある。

*様々なスポンサーの商品が登場することに否定的な感想もSNS上では見受けるけど、ぼくはこれに関しては肯定的だ。見覚えのある場所だけでなく、見覚えのある商品やサービスが登場することによって、現実と地続きであるようにより強く感じられるからだ。