「型」から夢想する演劇の未来 / ”Are you…? ” by tarinainanika

スタニラフスキー・システムでは、よく、内面の探求が伴わない演技を、「上辺だけの演技」と呼びます。私は、誤解を恐れずに言えば、上辺だけの演技でもまったくかまわないと考えています。私に(あるいは観客に)リアルな感覚を与えてくれれば、俳優の心の中では、今晩のおかずのことを考えていてもいっこうにかまいません。

平田オリザ「演技と演出」

ベンチに座った二人の”距離感”が変わっていく様子を描いたコーポリアルマイムの小品。
コーポリアルマイムを観るのははじめてだった。
ほとんど身体だけで表現していて、多少のセリフはあったが補助的なものだった。

一見すると、よくありそうな寸劇だったのだけれども、動きは無駄なく洗練されていて、興味を惹かれた。

そんな折、ちょうどコーポリアルマイムをちょっとだけ体験するミニワークショップが終演後にあったので、渡りに船だった。

概略すると、体の各部分を分節に分けて、分節ごとにスピードや角度を変えることで、身体のもつ表情が変わる、といった感じだろうか。内面はどうあれ、身体をそのように動かすことで、そう見えるということ。

説明が終わると、”握手”の動作でとなりのお客さんと実践。ちょうど隣がベテランの役者さんだったので、とてもスムーズに進められた。特に親しいということではなく、以前、観たお芝居に出演されていた役者さんだったので、ちょっと緊張したけれど…

観て、体験をしてみて感じたのは、コーポリアルマイムはとてもロジカルに体系的に整理されていて、それが洗練さを生み出しているということだった。


マニュアル化と言うと、なにやら悪いイメージがありますが、これは俳優の訓練の過程では、ある程度必要なことです。演技の方法論、訓練法とは、突き詰めれば、人間の身体や心の動きを何らかの形で類型化し、それをなぞっていくものだからです。
スタニラフスキー・システムは、その類型化の方法を、個人の内面、五感の記憶などに求めます。日本の伝統演劇は、それを代々継承されてきた「型」に求めます。

平田オリザ「演技と演出」

体系化、マニュアル化された演技手法ということでは、スタニラフスキー・システムとコーポリアルマイムは同じだが、アプローチ方法は全く逆だ。
スタニラフスキー・システムは、個人の内面から身体の動き、表情を生む。コーポリアルマイムは身体の動きや表情から内面が見えてくる(ように見せる)。


まづ、国王・大臣より始め奉り手、公家の御たたずまひ、武家の御進退は、及ぶべきところにあらざれば、十分ならん事たかし。さりながら、よくよく言葉を尋ね、品を求めて、見所のご意見をまつべきをや。

現代語訳:
まずかしこくも天皇や大臣をはじめ、貴族の方々のご様子や、行為の武家方のお振る舞いは、下々の我々には想像を絶するご身分であるので、まったく問題なく似せるということはむつかしい。しかしながら言葉遣いや行動様式を調査した上で演技を組み立て、上つ方の観客の皆さんのご批評をうかがうのがよかろう。

世阿弥 / 竹本幹夫 訳注「風姿花伝・三道 現代語訳付き」

表面上の身体の動きや言葉遣いでそのように見せるということであれば、歌舞伎や能に通じるものがある。いわゆる「型」というやつだ。上で引いたのは世阿弥の風姿花伝第二 物学条々の序文の一部だが、上記のあとには女、老人、神や鬼などに似せる方法が具体的に書かれている。
終演後、tarinainanikaの巣山さんと少しお話ができたので、コーポリアルマイムのアプローチ方法は歌舞伎や能の型を重視する点に近いかもしれないですね、という旨のことを話したら、コーポリアルマイムは誕生当時、東洋的であるという評価だったらしい。


前章で「アトムの髪型がアトムの本質であるように、綾小路翔の本質は、あのデフォルメされまくったリーゼントなのだ。」と。
つまりそういうことなのだ。ヤンキーに本質を求める事が難しいのは、その本質が常に全面的に表出されてしまっているからなのである。「ホンネでぶつかる」ことを美徳とする彼らは、おのれの本質を隠蔽する気などみじんもない。むしろ彼らの内面は、その髪型、そのファッションを選択した後に、事後的に発生するのである。
ぼくはこうしたヤンキー文化の特性が、ある意味での日本文化の「粋」であると考えている。

斎藤環「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」

東洋的かどうかはわからないが、日本的ではあるのではないか。ヤンキーはヤンキー的な表層を選択した後に内面が生まれる。
斎藤環氏はヤンキーはキャラ立ちしていると説く。「(日本人が)キャラ性をきわめていくと必然的にヤンキー化する」とまで言っている。
キャラは”人格的同一性を示す記号”であり、内面性はキャラの同一性を複雑にしてしまうので、希薄である方が「キャラ立ち」するという。

同一性というのは、場面や環境が変わっても、同一のキャラクターと認知されるために必要な最低限の特徴を意味している。

斎藤環「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」

忘れてはならないのは、ある記号が同一のキャラクターだと認知されるのは、受け手と発信側が文脈を共有している場合のみということだ。
例えば、「緑のツインテールで、ネギを持った女の子」のイラストがあったとする。ぼくはこれは初音ミクだろうと想像する。それはそういうものだと知っているからだ。「初音ミク = 緑のツインテール / ネギ 」といった文脈(=コンテクスト)を知っているからである。


表現者と鑑賞者が時空間を共有するということは、すなわち、仮想の共同体をともに生きているということだろう。だとすれば、そこではコンテクストの摺り合わせが何らかの形で行われているはずなのだ。

平田オリザ「演劇入門」

コーポリアルマイムに限らず、演技をみていてそれらしく見えるときは、ある文脈の中で、うまく似せられているということなのだ。さっきの初音ミクの例で説明するなら、緑のツインテールだが、いまいち初音ミクっぽくないイラストというのはある。そういうイラストは初音ミクはこういうものだという暗黙の了解に添うことができていないのだ。
文脈を読み解き、適切に似せることができれば、それらしく見える = リアルであるということだ。それは内面とは関係なくである。
それも、それらしく見えると判断するのは受け手側、観客だ。


佐々木 (前略)0.5秒ズレるだけで泣く人が何人増える増えないといったことが、ロボットだともっと緻密に計算できるってことが今の話だと思うんですけど、ということは、ロボットは内面がないけども観客の方には内面があるからこそ、そういう感動ってものが生まれるわけですよね。
平田 そうですね。

佐々木 敦 「即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア」

演じ手に内面が必要ないということであれば、俳優ではなく、ロボットでもいいということなのだ。具体的な事例として平田オリザ氏のロボット演劇が、もっと多くの人が体験している事例がある。

それは「初音ミク」だ。

初音ミクのライブ映像を初めてみたとき、ぼくは驚いてしまった。初音ミクは物理的には実在しないはずだが、初音ミクはそこにいて、観客を熱狂させていたのだ。


しかし、注意しなければいけないのは、初音ミクのライブにおいて、誰が舞台上に初音ミクがいるように見せている(似せている)のか、ということだ。それは演出家であり観客である。ロボットと同じで、何も術がないままであれば、初音ミクはただの抜け殻に過ぎない。
そこに命を吹き込むのが「型」なのだ。おそらく、ライブ上での初音ミクの仕草や歌い方は、実際に存在するアーティストを模して作られた事は間違いないだろう。

ロボットや初音ミクに演じさせる「型」はそもそも人間の行動や言葉をもとに組み上げられたものだ。どういった仕草や言葉遣いをすれば、らしく見えるのか。
コーポリアルマイムはそういった「型」を体系化したアートフォームの一つである。平田オリザ氏も体系化を試みているように思う。そのための実験としてのロボット演劇だろう。


日本でロボット演劇や初音ミクのライブ、ひいては初音ミクのオペラが生まれたというのは偶然ではないように思える。表面を似せることで内面が演じ手と観客の間で見出されるという、風姿花伝の時代から続く文化があったからではなかろうか。

そして、コーポリアルマイムはこの文化に通ずるものがあるように思う。もしかしたら、フランス生まれなので文脈は日本と異なるかもしれない。だが、アプローチ方法としてはとても近しく、有効性があるように思うのだ。


俳優は、現代演劇の創作過程においては、弱くか細い葦である。あるいは演出家の機嫌次第で配役さえ変えられてしまう将棋のコマである。だが、このコマは、同時に「考えるコマ」である。俳優個々人は、独自のコンテクストを持って、演出家、劇作家と向かい合うべき一個の独立した主体である。

平田オリザ「演劇入門」

ロボットや初音ミクに対して、人間の俳優にアドバンテージがあるとしたら、「人間である」「自ら考える」ということになる。

ロボットや初音ミクはやっぱり人間ではないため、まだ、人間と区別してしまうので、舞台上にいることに違和感を感じる観客もいるだろう。
また、ロボットや初音ミクは演出家がいなければ、まったく演じる事はできない。

将来的にはロボットや初音ミクに違和感を感じないようになるか、不気味の谷を越えた人間にしか見えない風貌のロボットやバーチャルキャラクターも生み出されるかもしれない。また人間のように自ら考える高性能な「自律型AI」もできるかもしれない。
でも、ぼくの生きているうちはたぶん無い気がしている。ちょっと残念だけど。

演技者がロボットやバーチャルキャラクターにとって変わられると考えると、残念に思う演出家や演技者もいるかもしれない。でも、彼らに入力するプログラム = 「型」を追究するのは、現代では演出家や演技者たちしかあり得ないだろう。

遠い未来、舞台上で物語を演じるのはロボットやバーチャルキャラクターかもしれない。そんな未来を夢想しつつ、その土台を作る、演技をロジカルに体系的に継承しようとしていく現代の演出家・演技者・研究者たちを応援したい。そして願わくば、ぼくもなにか一助となれればうれしいのだけれど。