呪いから生まれた創造性 – 救済のない呪い / 風立ちぬ

「風立ちぬ」について、冷静に文章を書くと言うことは、ぼくにはとても難しいだろう。
映画が終わりきらぬうちから、涙が止まらず、観賞後もこらえてもこらえてもあふれ出てくるのだった。
二郎のことを考えると苦しいし、それよりも菜穂子のことを考えるとやりきれなくて絶望して悲しいし、もうどうしようもないのだ。


「創造的人生の持ち時間は10年間」だとカプローニ伯爵は言った。
そして「飛行機は美しい夢だ。そして呪いでもある」とも言ったのだった。
二郎にとって、カプローニ伯爵の言葉こそが呪いであったように、ぼくには思われた。

「私たちには時間がありません」

切実な言葉だった。物語の後半はその切実さに常に覆われていて、観ていたぼくはちょっと刺激を与えられれば、ぼろぼろと泣いてしまうような状態だったし、実際にぼろぼろと泣いた。

確かに二郎と菜穂子の二人には、ことさら時間が無いようだった。
呪いが彼らから時間を奪っていたのだった。

考えてもみれば、二郎には仕事を離れ、菜穂子に付き添って高原の病院で一緒に過ごすという方法もあったのではなかろうか。しかし、二郎はそれを選ばなかったし、菜穂子もそれを望まなかったのだ。


黒川から、菜穂子を早く山へ返すべきだと諭された二郎はそれにこう応える。
「飛行機をやめて付き添わなければいけません。それはできない。」
「それはエゴイズムだ」と返す黒川、二郎はエゴであることに対しては反論せず、こう言ったのだ。

「私たちには時間がありません。覚悟はできています。」

菜穂子はともかく、二郎に時間がなかったということはあったのだろうか。
一旦、飛行機の仕事から離れて菜穂子に菜穂子に付き添い、また後に飛行機の仕事に戻るということだってできたのではないか。
しかし、二郎は10年間のうちに仕事を成し遂げなければならないのだった。「創造的人生の持ち時間は10年間」だからだ。

二郎はあえて呪いを引き受けることを選び取ったのだ。


「お医者様がお薦めの高原病院に参ります。私、治りたいの。二郎さんと一緒に生きたいの」

一方、菜穂子は結核という呪いと戦い続けていたのだった。二郎さんと一緒に生きたい、その望みを叶うべく高原病院に行ったのだし、そして脱け出しもしたのだ。

「仕事をしている二郎さんを見るのが一番好き」

二郎と一緒に生きること。
菜穂子のために生きる二郎と一緒に生きることではなく、二郎自身の人生を生きる二郎と一緒に生きることだったのだろう。


でも、菜穂子自身の人生はどこにあるんだろう。
医師になるという自分の人生を力強く進んでいる二郎の妹・加代のように、菜穂子自身の人生もあるんじゃないのか。

けれども、それは結核という呪いによってあらかじめほとんど奪われてしまっていた。
そのことがぼくにはとても切なく感じられ、絶望してしまったのだった。
はじめから呪いを回避する選択肢も、救済もなかった。
その中で菜穂子は自身の人生として、二郎の人生の一部として生きることにしたのだ。


戦争が終わり、二郎はカプローニ伯爵と語らう。
美しい飛行機だとカプローニ伯爵は言ってくれた。

10年間という制限時間の呪いのおかげだろう。
二郎は成し遂げたのだ。
呪いが生んだ創造性によって、美しい夢を叶えたのだ。

でも二郎は言うのだ。
ただの一機も戻って来なかったと。

二郎は取り残されてしまったのだ。

そして残された二郎は、菜穂子から重い言葉を受け取るのだ。

「あなたは生きて」

美しい夢を叶えるために呪われることを選んだ二郎は、
夢を叶えて呪いの時間が過ぎ去って独りぼっちとなった後、
ふたたび呪われてしまったのだ。
今度は選び取るのではなく、避けられぬものとして。


選び取るのではなく、避けられぬ呪い、それが菜穂子に儚い美しさを与えていて、特に結婚式のシーンはえも言われぬ美しさだった。
でも、呪いを帯びているからこそ美しいなんてさびしすぎるんじゃないか。それしかないなんて絶望してしまう。

黒川宅から去っていく菜穂子を追おうとした加代とそれを静止した黒川夫人。
「美しいところだけを好きな人に見てもらったのね」
呪いを受け入れることを良しとするのは時代のせいなのか。

菜穂子の去っていった方を見て溢れるように泣く加代の姿はとても身につまされるものだった。
ぼくも加代と同じように呪いを甘受することを肯定できなかったからだろう。


呪いを美しく受け入れたことで、菜穂子は儚く美しい存在になったのだけれど、結果、二郎に「生きる」呪いを与えることとなった。二郎は創造的な10年間を過ぎ、たった独りになってなお、生きなければならないのだ。それは苦しいことだろうと思う。
でもぼくは同情するつもりはない。それが二郎のエゴの終着なのだから。