「愛」は奪うものなのか / 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語

終映からずっと一日中、さみしく、悲しくて、沈んだ気持ちだった。
「愛」ってこんなにさみしいものなんだろうか。

思えば、前作までは「片想い」の物語だった。
ほむらの想いが、気持ちが伝わって、
そして、まどかがその気持ちに応えてくれたから、救われたのだ。
言わば「恋」が成就するまでのお話だった。

でも、今作の「愛」はさみしくて、こんなものなのだろうか。奪うしか無いのだろうか。
ぼくはすんなり受け入れられなくて、見ていてとてもつらかった。悲しかった。

尾崎 さうかねえ。……しかし、ぢゃあ、奥さんはどうするんだ?
五郎 なに?
尾崎 そんなおつかない顔をするなよ。金が無くつて、あの奥さんをどうするんだと言つてるんだ?
五郎 ……。殺す。
尾崎 なんだつて?
五郎 俺が殺す。殺してやる。

三好十郎「浮標」

あれこれ、ぼんやりと考えながらあるいているところに浮かんできたのは「浮標」のこのシーンだった。
「俺が殺す。殺してやる。」
この台詞に苛烈なまでの愛情を感じるのだ。
確かに金が無くてみじめでつらい思いをするくらいなら———
そういうことなんだろうか。命を奪うほどの愛、でも愛は奪うものなんだろうか。
二年前にこのシーンを観たときには、ぼくにはとうてい理解できなくて、
彼岸にあるように感じてしまったのだった。

「恋」は想いが通じてほしいと願うことで、「愛」とは秘密の共有なんだと思う。
「浮標」の五郎と美緒であれば、五郎の万葉集の読み聞かせが二人の「秘密」なんだろう。
二人だけが共有している時間、それは「秘密」以外のなにものでもない。
ほむらとまどかなら、まどかのことを覚えていること、そして、ほむらがまどかのためにくり返し続けたこと。それが二人の「秘密」だ。

ぼくしか知らない彼女がいて、彼女しかしらないぼくがいる。
でも、ぼくしか知らない彼女が、誰かに知られてしまったら。
あるいは、ぼくではない誰かが、彼女と「秘密」をつくったら。
そうならないよう、知らず知らずのうちに「支配」「コントロール」しようとしているんじゃないだろうか。

そして、愛する人が他の誰かに「支配」されそうになっていたら———
そう考えたとき、ぼくは「殺す」という台詞がわかった。
そうか、命を奪ってしまえば、他の誰かや何かに支配されることはなくて、自分だけのものになるのだ。

存在までは奪わないにしても、大切な一部を奪って支配することで、
他の誰かに「支配」されない、自分のものにする。

ああ、でも、ぼくは奪うよりも奪われたいのかもしれない。
物騒かもしれないが、愛する人に殺されるなら本望だと言う気持ちを、ずっと前から微かに持っている。

渚カヲル「そう、武器は使うなよ。君は僕をしめ殺した感触をその手に残すんだ。そうしたら、君は僕のことをイヤでも忘れないだろ?今まで君が失った人たちと同じように。」

新世紀エヴァンゲリオン 第11巻

全てを奪って支配することができないのなら、
支配される、奪われる、殺されることで愛する人の心にしっかりと刻まれる。
そうすることで逆に支配する。

果たして、ほむらの行き着く先もそうなんだろうか。