DULL-COLORED POP「Caesiumberry Jam」を観た

2011年8月27日(土)14:00
DULL-COLORED POP「Caesiumberry Jam」
@シアターグリーン Box In Box

質の高い公演。これで3,000円はお得

DULL-COLORED POPの公演を観たのは旗揚げ公演以来なので、6年振りでした。谷賢一氏の演出の手腕は信頼しているし、TwitterやCorichを見ると、かなり評判が良かったので相応の期待をして観にいきましたが、評判に違わぬ質の高い公演でした。

まず役者の演技の質が高かったです。単純にミスが少ないということもありますが、何よりアンサンブルが崩れない。おかげでしっかりと集中して作品を観ることができました。

もちろん演出も質が高く、「なんとなく」やっている演出というものがなく、全て何かの意図があってやっていると感じられました。

3,000円という価格帯でこれほど質の高い公演というのはなかなかなく、お客さんにとってはかなりお得な公演だったと思います。
しかし、質の高さがありながら物足りなさも私は感じました。

狂うことと幸せについての話

私がこの作品で印象に残った台詞/言葉は以下の2つでした。
1)「これは何についての話です」というカメラマンの台詞
2)「でも私があなたにお話ししたかったのは、愛について」 というリューダの手紙の言葉
私自身、観ていて「何の話なんだ?」と感じ、そして(2)の台詞で気づかされました。
これは「狂うことと幸せについての話」なんだと。

汚染されていると知りながらナジロチの村を離れず、そこに暮らす村人たち。彼らはゆるやかに狂うことで汚染された村で幸せな日常を維持します。また、リューダも狂ったまま、というより狂ったことで幸せを得ることができたようです。

わかりやすいのはミーシャでしょう。最初は科学を信じていた彼は、最後には宗教に狂ってしまったようになります。しかし彼はそれまでで一番幸せそうでした。

それでは誰から見て狂っているのか。狂いは相対的なもので、正常な人(とされる者)から見ておかしい時に狂っているとされます。

村人を見るカメラマンとゴゴ、カメラマンとゴゴを見る観客

作中で狂った村人たちに眼差しを向けているのは、カメラマンとゴゴ、そして観客です。

カメラマンとゴゴは村の外から来た客人であり、村人を外から見る存在です。
特にカメラマンは村人と全く関係のない他人です。ゴゴは弟のディディが村に住んでおり、村と無関係ではありません。それに対してカメラマンは外からの観察者であり、カメラマンと観客に近しい存在に感じられます。

しかし演出上、カメラマンと観客の視点は同一化されておらず、カメラマンと観客は隔てられていたました。
舞台は木枠で囲まれており、観客は枠を通して出来事を見ていました。またカメラマンは観客と同じ方向から村人たちを見ることもありませんでした。

作品はカメラマンとゴゴがナジロチの思い出を語る、という形で進行します。
ゆるやかに狂っていく(狂っている)ナジロチの村を見るカメラマンとゴゴ、観客はその彼らをさらに外から見ているのです。

だが、ここで疑問が一つ生じます。なぜナジロチの村を外から見る人物がゴゴとカメラマンの二人必要だったのか。

カメラマンとゴゴ、その二人の違い

作品の進行上、二人いたほうが便利だということもあると思います。モノローグでは単調になりがちなので。
しかし、ゴゴとカメラマンの立場の違いというものこそが大事なことでしょう。

ゴゴは弟のディディがナジロチに居るために介入せざるを得なくなります。
それは彼を単なる外部の人物からナジロチの関係者に変えてしまいます。
狂いを外から見る人物から、狂いを知りながら狂気に身を投じる人物となるのです。

一方のカメラマンは最初から最後まで外部の人物でした。
最後のシーン、彼の「よかった」という台詞、狂いの中の幸せ、むしろ狂うことで得られた幸せがあったのだと、ナジロチはただ狂ってしまい凄惨な最後を迎えただけではなかったのだと気づくことで生まれた言葉でしょう。

しかし、それは最後まで無責任な部外者だったからこそ生まれでる言葉ではないでしょうか。自分自身でその無責任さを知っていたからこそ手記を出版することを躊躇していたのだろうし、無責任に「よかった」と思えたからこそ、その後出版できたのでしょう。

物足りなさの正体

ただ、ゴゴとカメラマンの立ち位置の違いというものが脚本上ではうまく描けてなかったように感じました。狂いの中に巻き込まれていくゴゴの狂いが描ききれていなかったのではないか、そう感じたのです。
それがおそらく私の物足りなさの正体です。※1
(もちろん私が作品を読み違い、楽しめなかった可能性もあるのですが・・・)

カメラマンとゴゴの目線の違いがもっと明確に浮き出たほうが面白かったように思います。
この二人の目線の違いは福島原子力発電所の事故における、日本と海外の目線の違いともだぶって見えますし、それも日本人(カメラマン)と外国人(ゴゴ)の位置が逆転しているということが面白いです。

目線の違いをわかりやすく表現するにはダイアログのシーンが短かったように思います。たしかに現状でもちらりとは見えるのですが、村の描写に重きを置き過ぎたように感じました。

完成度の高い作品ですが、まだまだもっと面白くなりうる作品だとも感じたので、再演はすぐには無いと思いますが、数年後にまた再演して欲しい作品です。その時はもちろんまた足を運びたいです。

※1その他にも狂いながら営まれる日常の描写が不十分だとも感じました。季節感のなさからか、生活感が感じられませんでした。割とステレオタイプというかデフォルメされた日常の描き方をしていたように思うのですが、それが自分の肌に合わなかったというのもあるかもしれません。※1-2 デフォルメされた日常と書きましたが、舞台の木枠も含めて考えると、この「Caediumberry Jam」はリアリティを求める芝居ではないのでしょう。